四柱推命の歴史
四柱推命とは
四柱推命は、生まれた年・月・日・時間のそれぞれの干支を算出し、四本の柱に見立てて占っていくことから、こう名前がつけられました。 東洋の占いの帝王と呼ばれ、その組み合わせは100万通りにも及び、抜群の的中率を誇ります。 その歴史は古く、四柱推命に使われている干支は、中国大陸の古代の国・殷の時代の甲骨文字にも見ることができます。
ただし「四柱推命」という名称は日本独自のもので、中国・台湾などでは「八字(パーツー)」とか「子平(ジピン)」などと呼ばれています。(とはいえ最近では中国などでも「四柱推命(スーツートゥエ イミン)」という呼び名が、日本から逆輸入されてきているようです。)
四柱推命の歴史
四柱推命の基となる十干・十二支というものは、中国の殷王朝時代の中頃(B.C.1400年頃)にはもう使用されていました。
最新の研究者の見解によれば、殷王朝の王族の名の一文字には、生まれた日の十干が入れられていたほどですが、十干に五行要素が配当されたのは、春秋戦国時代末期であり、十二支に五行要素が配当されたのは、漢の時代だと言われています。最初に、四柱推命の基らしきものを作ったのは、唐の時代(618年~907年)の李虚中でした。(春秋戦国時代の鬼谷子という人物が推命学の基を作ったという説がありますが、個人的には賛同できません)
ただし、李虚中の頃の四柱推命は現在のものとはかなりかけ離れたもので、年干を中心に人の命運を見ていました。現在のように日主を中心にした推命学が確立されたのは、宋の時代(960年~1279年)の初めで、徐子平によるものです。徐子平は、四柱推命の生みの親とも言われている人物です。
その200年後、徐子平の学問を研究した徐升が「淵海子平」という書物を記しました。
この「淵海子平」は、推命学の世界においてあまりにも有名です。
しかしながら、この頃の四柱推命には、五行のバランスを取るという考え方が希薄で、本格的な四柱推命が確立されるまでには、明の時代(1368年~1644年)初めの劉基の出現の時まで、もう200年の時を待たねばなりませんでした。
明の宰相でもあった劉基が著した「滴天髄」は、四柱推命のバイブルとも言われている書物で、推命学の本質が見事に記されています。この明の時代には他にも「欄紅網」(作者不明/のち余春台が「窮通宝鑑」として改編)や「三命通会」(萬育吾)、「神峯通考」(張楠)などが、また、清の時代(1644年~1912年)には「子平眞詮」(沈孝瞻)などが著さ れました。この中でもとりわけ「欄紅網」を基にしてに書かれた「窮通宝鑑」は、十干と十二ヶ月の月ごとの季節の関係が細かく記されたとても価値のある書物です。
近代では、徐楽吾の「造化元論」を始めとした数々の著書が、非常に信憑性をもたれています。
一方、推命学が初めて日本で翻訳されたのは江戸時代後期の事で、桜田虎門の記した「淵海子平」の訳本「推命書」が、その最初だと言われています。その後、日本では阿部泰山のいわゆる「泰山流」などを始めとして、様々な多くの流派が生まれ、現代に至っています。