エテイヤの思春期
エテイヤの本当の名前は、ジャン・バプティスタ・アリエット(Jean-Baptiste Alliette) と言い、1738年3月1日にパリで生まれました。
父の名前もジャン・バプティスタ・アリエット(同姓同名)、母はマリー・アン・ボトレ という女性でした。エテイヤの両親は、穀物や種の行商を営んでいました。
エテイヤは、この夫婦の2番目の男の子ですが、驚くべき事に、この夫婦の長男(つまり エテイヤの兄)の名前も、ジャン・バプティスタ・アリエットです(笑)
ご存知の方も多いとは思いますが、エテイヤの名前は、アリエットという本名のアルファ ベットのつづりをさかさまにしたものです。
エテイヤは思春期の頃、トランプ占いに非常に興味を持 つようになりました。今で言う、ちょっと変わったオタ ク少年だったのかも知れません。
現代において世界中に普及している、♣♥♠♦のフレンチスートのトランプ(プレーイング・カード)は、まさにエ テイヤが生きていた18世紀後半にパリで作られ、大流行したものです。少年のエテイヤはこのトランプを肌身離さ ず持って、一人でトランプ占いの研究をしていました。
この頃のエテイヤは、すっかりこのトランプ占いのとりこになっていたようです。
少年のエテイヤは、トランプ占いの1枚1枚のカードの意味などを、まとめた資料を印刷し、人々に配って解説して いたほどでした。後に、エテイヤは、この1753年に出した印刷物が、自らの最初の出版物であると述べています。
大人になったエテイヤ
弱冠15歳にして、精力的なトランプ占い講師活動を始めたエテイヤでしたが、意外な事に、大人になったエテイヤ は、占い師の道を進もうとはしませんでした。世間一般的な、結婚して子供を持つという普通の人生を選んだのです。 エテイヤは、1763年ジャンヌ・ヴァチエールと結婚し、ルイという男の子が生まれます。二人は、エテイヤの両 親と同じように、種や穀物の行商で生計を立てていました。
しかし、1767年には、二人は離婚してしまいました。妻は、地に足がついていないエテイヤに嫌気が差したのか も知れません。彼女はその後も引き続き、穀物の行商を続けていました。
この頃からエテイヤは、子供の頃から大好きだったトランプ占いの世界へと、いよいよ足を踏み入れて行く事になり ます。
時は1770年、フランス革命前夜のパリでは、ルイ王朝による圧政により、市民は貧困に苦しみ続けていました。 エテイヤは、そんな政治を変えようと活動していた活動家でもあります。
また、政府による厳しい取り締まりにより、投獄の憂き目にあっていた、年老いたカード占い師達を助けたりもしま した。
この頃、エテイヤは、間もなくフランスで革命が起こる事や、多くの人々がそれによって生贄にされる事を予見して いたと、伝えられています。
公式に認められている、エテイヤの初の出版物は、1770年の「M***によるカードパックとその使用を楽しむ為の 方法(Etteilla, ou Manière de se Récréer avec un Jeu de Cartes per M***)」というものです。この頃から、 エテイヤのパリにおけるカード占い師としての地位は、不動のものになっていきました。
続けざまに、1772年には「毎日の神託の書(Lettre sur l’Oracle du Jour)」を出版、続く1773年には、 1770年の「M***によるカードパックとその使用を楽しむ為の方法」の改訂版を出版しました。
一連の全ての本は、トランプ占いに関する内容が中心に書かれたものです。
その後、エテイヤは10年間沈黙を守ります。この期間エテイヤは、どうやらパリだけではなく、ストラスバーグで も活動していたようです。
そして1781年、クール・ド・ジェブランの「原始世界 第8巻」をパリの地で手に取り、これがその後のエテイヤ の人生の方向性を、大きく決定する事になります。
この「原始世界 第8巻」が発行されて2年後の1783年から、エテイヤは「タロットと呼ばれるカード遊びの楽し み方(Manière de se récréer avec le jeu de cartes nommèes tarots)」と題した、四部作の超大作の本を、 出版検閲局に何度も拒否されながら、ようやく出版にこぎつけます。これは、記念すべき、タロット占いがメインの 内容として出版された世界初の本です。
その後、エテイヤは矢継ぎ早に、錬金術の本、人相の本、手相の本を、たて続けに出版していきました。 そして、1788年エテイヤは、「トートの書の解釈会(Soiété des Interprètes du Livre de Thot)」を設立し ます。この時には、ドドゥセ、ヒスラー、ハーガンといった弟子たちがエテイヤの元に集まっていました。
1789年フランス革命のその年、エテイヤによる世界初の占い用タロットである「エジプシャン・タロット (Caratonomanie Égiptienne)」が世に出ます。
このカードの後に大アルカナと呼ばれる22枚の絵柄は、エテイヤによって、全てエジプト風に改編されました。こ れは「原始世界 第8巻」を参照してはいるものの、ほぼエテイヤの独創です。しかしながら、特に2番のカードから 8番のカードまでの7枚のカードには、カバラともつながった秘められた意味があります。
翌年の1790年には、魔術学校である「ヌーベル・エコール・マギ(Nouvelle École de Magie)」パリに設立さ れます。この時には、息子のルイもエテイヤの仕事の手伝いをしているようです。
世の中は、フランス革命の余波で、ごったがえしていた時代です。
しかし、この時すでに、エテイヤの寿命はたった1年しか残されていませんでした。
弟子の一人ドドゥセ
この頃、弟子の一人ドドゥセが、エテイヤの魔術学校の活動の一翼を担っていました。
ドドゥセは常にエテイヤの傍らにいて、最初は信頼関係で結ばれていたものの、二人の仲はだんだんと険悪になって いきます。それは、政治的な見解の違いによる理由が大きく、エテイヤが革命賛成派であるのに対し、ドドゥセは最 後まで王政主義者であり、その思想は完全に対立していました。
この頃、ドドゥセは「Dodo」(ドードー鳥=「愚か者」)と、呼ばれていた事からも、二人の関係の確執の深さが わかります。
エテイヤは正式な自分の後継者を、弟子の一人であるハーガンに指名しましたが、結局、エテイヤの死後、彼の事務 所を占拠し、エテイヤの事業を引き継いで権力を握ったのは、ドドゥセの方でした。
エテイヤの死因は未だによくわかっておらず、少なくとも、死の4か月前までは、精力的に執筆活動をしていました。 (ちなみに、ドドゥセは1804年「サインの科学(Science des Signes)」という本を出した後、1808年、 王党派の危険人物として警察に逮捕され、その後の消息を絶っています)
生涯の最後
1791年、エテイヤの人生最後の年、精力的に政治や社会についての主張を綴ったパンフレットを、発行していま した。中には、新政府に対して、死刑制に反対する主張を述べたものまでありました。
恐怖政治による粛正で、一つ間違えばいとも簡単にギロチンの上で首を切られる恐ろしい時代…
この時代のエテイヤの関心は何よりも、混乱している社会を少しでも良くする事にありました。
エテイヤはその生涯の最後に、トランプをアレンジした、占い用パックを出版しています。エテイヤの占いの原点は、 あくまでもトランプ占いにあったのでしょう。
その年の8月、次に発行する予定のカード占いの本の序文を書き終えたエテイヤは、同年12月12日、53歳で人 生の幕を下ろしています。
エテイヤの死は秘せられ、オセルにあるサン・ジェルマンの共同墓地に埋葬されました。
葬儀に立ち会ったのは、息子のルイ、ルイの家主、そしてムッシュ・ルネという理髪師の3人だけだったそうです。 エテイヤの元々の職業は理髪師であった、という誤情報は、後のエリファス・レヴィの著書からが始まったものです が、レヴィが、葬儀に参列したムッシュ・ルネが理髪師であった事を、間違ってエテイヤの職業として取り上げてし まった為ではないかと、指摘されています。